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大好きなサッカーチームの選手達にトロフィーを渡す瞬間、バターカップはいつも見せない素直で明るい笑顔を見せる。彼女はいつも、女の子らしく振る舞うことを毛嫌いしているが、女の子らしさと素直な笑顔は関係ない。それなのに、こういう笑顔を普段見せないのはなぜ?
トーノZERO, THE BELKANアニメ感想家(笑)のアニメ感想を参ります。
今日のパワパフZの感想。
サブタイトル §
第14話「ギャングリーンギャング! その1」「ギャングリーンギャング! その2」
あらすじ §
ユートニウム博士、ケン、ピーチ、ガールズはイタリアンのレストランで食事をしています。
そこに、オモチャのゴキブリでイチャモンをつけてタダ飯にありつこうとしたモンスター5人組、ギャングリーンギャングがやってきます。
ガールズはギャングリーンギャングを倒しますが、彼らはユートニウム博士の光線でも元に戻りません。
様子を見るということで、ギャングリーンギャングは放免されます。
ギャングリーンギャングは、それぞれ家庭内で不幸な立場を抱えていました。
ギャングリーンギャングは、3人ではなく1人ならガールズを倒せ、それで名をあげたいと願います。
サッカーの試合のトロフィーを渡すため、市長の代理としてバターカップはスタジアムに行きます。そこで、ギャングリーンギャングは様々な策を巡らせバターカップを陥れようとします。しかし、試合に夢中のバターカップはそれに気付かないままパワーで排除してしまいます。
ギャングリーンギャングは試合に乱入しますが、バターカップに勝てず、飛ばされてしまいます。
変更点 §
オープニング §
いくつかのカットが変更されています。
絵の内容そのものが書き加えられている箇所もあれば、基本的に同じ絵のまま色が変わっている箇所もあります。
たとえば、「い・ま♪」のところでユートニウム博士が指さすカットでは、背景の色が赤くなり、陰(?)が描き込まれています。かなりムードが違うので、前回以前と今回の録画を持っている人は見比べると面白いでしょう。
変身 §
バブルスとバターカップの髪の宝石が輝くカットが追加されています。ブロッサムは身につけていないので、あくまでバブルスとバターカップだけです。
構成も少し変わっています。
ちなみに、この宝石はもともと二人が身につけているもので、変身で装備されるものではありません。
エンディング §
絵も歌も全て入れ替えです。
前回までのものも大傑作でしたが、新しいものも悪くないですね。
テーマは孤独と仲間でしょうか。一人きりの3人の寂しげな描写がなかなか良いムードですね。その孤独を経由することで、仲間の価値を知ることができるわけです。
感想 §
今回の内容は、悪いモンスターと正義のパワパフZという単純な図式に見せかけて、実は簡単に割り切れません。
悪いモンスターになったギャングリーンギャングの面々には、一人一人自分の家、家族、生活というものがあります。そこであぶれ、居場所を上手く見いだせず、待ちに彷徨い出て出会ったのが彼ら5人組でしょう。
とすれば、彼らに対して「悪いことをやめろ」というのは何ら問題の解決にならないわけです。彼らが求めているのは居場所であるからです。たとえば、ギャングリーンギャングというグループを作ることも、モンスターになることも、パワパフZを倒してモンスターとして名をあげることも、全ては「居場所を作る」という目的に即したことでしかありません。
なぜ、ギャングリーンギャングが元の姿に戻らないのかといえば、逆説的な意味で「モンスターである」という状況そのものが、不完全ながら彼らの居場所そのものだからでしょう。単なる人間であれば獲得できなかった特権性を、モンスターであれば容易に獲得できるわけです。たとえ、それが悪い存在であると見なされるとしても、それは社会的に特権的な立場です。
しかし、そのような屈折はパワパフZはもとより、周囲からも全く理解されません。
だからこそ、ギャングリーンギャングは戦い続けて完全なる居場所を自力で手に入れねばならないのです。たとえ勝てなくても、それは求めねばならないものなのです。社会的に「生きている」状態になるために必須のものなのです。
更に感想 §
後半、ギャングリーンギャングとバターカップ一人に絞られたドラマになっていくのも良いですね。3人でグループを組んでしまわないことによって、バターカップの魅力がより強く出せたと思います。
3人組だからといって、いつも3人で活動するのも面白くありません。むしろ、一人ずつバラバラに行動して「一人でも主役を張れる」ぐらいの魅力を示した上で、3人集まるゴージャスさを楽しみたいですね。
今回の一言 §
うーん、やはりパワパフZは心のドラマとして極上ですね。
バブルスの初恋のドラマから、この作品には一線を踏み越えて深く入り込んで見ているところがあるわけですが、その期待を裏切らない優れた「心のドラマ」です。
以下余談。
そもそも「心のドラマ」とは何か?
その話題だけで1つのまとまった文章を書こうかと思っていますが、ここではダイジェストだけ。
「心のドラマ」とは、以下のように定義づけてみようかと考えています。
登場人物が発する台詞、ファッション、態度が示すメッセージと、その人物が意識的、あるいは無意識的に心が抱えるメッセージが食い違っている状態を、明示的、あるいは間接的に表現しているドラマ
ギャングリーンギャングの場合なら、彼らが示すメッセージは「強い」「怖い」「悪」といったものですが、それらは実際には彼らにとって目的ではなく手段でしかありません。彼らが本当に願っているのは、自分たちの居場所を作り、そこで生きることです。これが、上記で言うところの「食い違い」です。
この種の食い違いは、たいていの人間なら誰でも持っているものです。いや私は持っていない……という人は、たいていの場合、無意識的に食い違いを持っているのです。
それゆえに、アニメを見る際に「食い違いがない登場人物」と「食い違いがある登場人物」を見比べた時、後者の方がより生々しく生きているかのように思える……という傾向が出てきます。その結果、作品の存在感や印象の深さが、より大きくなります。そして、作品のことを考えることは、あたかも自分や実在する誰かの人生について考えるような生々しいものになって行きます。
そして、それが「心のドラマ」の価値です。